ジイちゃん、さよなら

ああ、これはまずいぞ、と病院に駆け込んで2日目、ようやく40%復活。
義父の具合がいよいよよろしくない、と連絡を受けて島に渡ったのが8月6日、その時は日帰りでしたが、急なスケジュール変更でバタバタしてしまい、相当体に負荷がかかったようで、帰りの船の中で突発性難聴発症。
その時は兎に角も日帰りで大丈夫だったので、家にあったビタミン剤を飲んで半日寝込んで何とか復活。
必要な打合せも全て済ませ、8月12日から帰省。

お盆というのは今生の者もご先祖様もどわーっと集まる時期なので、ジィちゃんあかんかもしれんなあ、みたいな思いはしていたのですが、翌日、朝の5時に病院から連絡。
「すぐ来て」と。

息子を叩き起こして歯磨きと数回顔を水で流すだけで車を走らせること20分。
とりあえずその時はまだ大丈夫だったかな。
呼び出した新米看護婦さんは、「ご家族呼ぶにはまだ早いです」と先輩看護婦さんに怒られていたそうな。
でも、いつ何時、みたいな感じだったので誰も帰ることができません。
午後くらいに流石に疲れ果てて交代で談話室のソファを占領して仮眠。

夕方近くなってから、ジイちゃんの呼吸はよく止まってしまうようになった。
皆で声をかけてまた呼び戻す。午後6時に最後の孫が帰って来るから。
「お義父さん、○○ちゃん、もうすぐ帰ってくるから!」
と、声をかけると、今までうっすらとしか目を開いていなかったジイちゃんの目がかっと開いたので、よっぽど会いたいんだろうなーと思いましたです。

が、私がその○○ちゃんとよく似た眼鏡をかけていたので
「あ、ごめん、私、○○ちゃんじゃないから」
あはははは・・・
まあ、まだその時はみんなでそんな冗談を言い合う余裕もあったかと。
義姉(ジイちゃんの実の娘)なんて、
「これ、パーンてしたら、ジイちゃんの呼吸戻るんちゃうか」
なんて、酸素マスクの紐ひっぱったりしていたので。

午後6時、ようやく孫到着。
じいちゃんは○○ちゃんの声を聞いて、最後の呼吸を終えました。

亡くなった、ということは一連の儀式が待っているということです。
私は喪主の妻で、その後3日間、ほとんど寝る時間のない状態だったわけですが、島の慣習やらなんやらがさっぱりわからない私に代わって義姉や義兄、親族の方が一生懸命動いてくださったから、「寝ないだけ」で済んでいたともいえます。
(逆に言うと、全く当てにされていなかった、ということでもあるけれど)
これがもし、全部を自分で中心になって動くことになっていたら、と思うと、今頃ブログなんて書けてなかったでしょう。

島の実家は仏教ではなくて神道なので、質素で簡素です。
お葬式にかかる費用は恐らく仏教に比べると半額か3分の1くらいで済むかも。
でも、お通夜やお葬式という流れはあるので、自分の母の時は密葬だった私には何十人どころか100人単位のお葬式はクラクラな状態です。
それでも、ジイちゃんは家族全員に見送られ、遺骨も全部大きな骨壺に入れてもらって、とても幸せだったんじゃないかと思います。
さすがに火葬場では記念撮影していませんが、まだ家にジイちゃんがお布団の上にいるときも孫たち全員がジイちゃんの遺影を持って「笑顔」で記念撮影してましたが、不謹慎というより何となくジイちゃんが嬉しそうにしているような気がしましたよ。

ジイちゃんのお骨の大半を拾ったのは夫と次男でした。
私の母が亡くなった時、次男は小学生で、生まれて初めて人が骨になるのを見たせいか、とてもショックを受けて暫く精神的なケアが必要でしたが、高校生になった彼はひょいひょいとジイちゃんのお骨を拾い、「入りきらないなあ〜」と呟いて火葬場の人にお骨の詰め方を教えてもらってぐいぐい処理していたかと。

こういう場で実はなーんの役にも立たないのにとりあえず「喪主の妻」だからということで、お茶碗のご飯を持ったり、お棺の傍にいないといけないのが私だったわけで、私なんかより、ずっとジイちゃんの看病をしてきた義姉や妻であるお義母さんが傍にいてあげたほうがジイちゃんもきっと嬉しいだろうに、と思うけれど、それはどうしようもないことなんだそうな。

そうそう、お茶碗。
最後に山盛りのご飯にお箸を立てて作る「一膳飯」。
このご飯を入れるジイちゃんのお茶碗がどうしても見つからなかった。
ジイちゃんは病気でご飯を食べられなくなって長いので、たぶんお義母さんが片づけたんだと思うけれど、お義母さんは少し認知症なのでどこに片づけたか分からない。
これかな、あれかな、とみんなで大騒ぎして、
「大きさからしてこれじゃない?」
と決められた茶碗を見た時、私は心の中で『う、うーーーん・・・』と思ったけれど、ここでまた振リ出しに戻って捜索するのは大変なので黙っておくことに。

そう、たぶん、ジイちゃんの一膳飯を入れたお茶碗は島に帰った時に私が使っていたものだったかと。

ジイちゃん、ごめんね、私のお茶碗、使ってください。

私の耳がすーっと聴力を失ってきたのはお通夜の最中で、実はそれまでも気配があったのでがんがんドリンク剤を飲んでいたのですが、如何せんこの暑さと睡眠不足。
葬儀が終わった時には左耳は完全に詰まった状態になっていました。
本土に戻った日が土曜日の午後だったので、着いたその足で耳鼻科に直行。
検査の結果、幸いにも自分で思っていたほど状態は悪くないらしく、もうこれは過労と睡眠不足しかありえないだろう、と。
「ビタミン剤と血流改善薬出しておくから、何とか休んで乗り切ってちょうだい」
と、薬を処方され、少しずつ聴力を取り戻しつつあります。

都会と違って、島は人との繋がりが強固なので、まだこれからもいろいろと祭事があります。
(神道は「お祭り」なんだそうな。亡くなったら神様になるからかな)
大丈夫かな、とちょっと不安になるけど、まあ、仕方ないかな。これも私の勤めです。

手間暇かかるジイちゃんの葬儀は私には想像を絶する感じがしたけれど、村の人が何十人も、葬儀でも何十人も、いや100人越えてたかな。
たくさんの人に見送ってもらって、別れを惜しんでもらって、できる限りのことをして見送ってあげた、というのは故人に対してだけではなく、残った者が今生を歩き始めるひとつのけじめなのではないかな、と思ったりもしたのでした。
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