そんな生活、楽しいですか?

どーも、G4のWrapperが破損したらしく、挙動がおかしいうちの林檎。
ディスクウォーリアで復旧はしているけれど、これ、時間の問題かもしれないなあ。どこかでリストアせねばなるまい。
と、いうか、明日の朝、起動してくれるのか?というかなりな不安あり。
ひゅぅぅぅぅ…。
さて、先日めずらしく怒りにまみれたわたしですが、最近また怒りにまみれています。
世の中には、どうしても「自分の思う通りのことを人がやってくれないと許せない人」「自分の価値観と合わないと許せない人」「自分が中心でないと許せない人」「なにかにつけ文句を言わないと気が済まない人」というのがいるようです。

コミュニケーションって大事でしょ?
相手にとってあまり聞きたくないようなことを言ってそれを受け入れさせるには、相応の言い方、というものがあります。
でも、不思議なもんで、理不尽なことを言う人は、言い方もやっぱり理不尽です。
ええ年して、なんでこんな言い方しかでけへんのやろ、とか、なんでこんな小せぇことにぐちゃぐちゃ文句つけんと気がすまへんのやろ、とか、ほかにやることがないのか?とか、もしかしてこれが生き甲斐なのか?とか、つい考えちゃいます。

十人十色で、わたしは人の価値観は人それぞれだと思うし、同じ事をやるのでも人が違えばやり方は違うと思っています。と、いうか、それが普通だと思います。
よほど間違ったことでなければプロセスはあんまり関係ないです。
と、いうか、何を押さえるべきかの視点がずれてさえいなければ問題ではないとわたしは思っています。

そこにつけるプラスアルファも人それぞれです。
自分の工程、自分の導き出したい結果、自分のつけたいプラスアルファ、があるんだったら、自分でやるしかありません。
それを他人に「やれ」と命令したり、苦言を呈したりできる立場というのは、限られた関係だけです。

そういう関係性になく、100歩譲って意向に沿うようにやったとしても、それで終わりにならないんじゃないかなーというのが分かるときっていうのは、従うのも躊躇します。
ひとつを満足させたら、また次、その次、結局、「公」の目的を達することよりも、個人の満足感を充足させるためになってしまいます。

「一生懸命やってる人を突き落とすようなことを言うなよ!」
というのが今日のキモチ。
本当に一杯一杯に張り詰めて頑張っていたのに。
反省点は、そりゃいろいろあるかもしれんけど、無事に済んだ。事故もなかった。それでええやんか。
よう頑張ったってせめてねぎらいの言葉をかけてやりぃな。
自分がやったわけと違うんやで?
代わりにやってもらったんやろ?
どうも精一杯ででけへんみたいやなあ、と思ったら、手伝ったりぃな。
よっしゃ、自分がやったる、で動きぃな。
動いてそれで礼を言ってけぇへん、って、あのさあ、ボランティアやで、みんな。
あとで、こういうこともやっといたほうがええで、ってアドバイスしたらええがな。
なんで、それがでけへんの。
ぐちぐち陰口言うて、文句垂れて、それはちゃうやろ?
ほんまに必要なことやと思うんやったら、当事者にちゃんと言いなはれ。
まっとうな言葉で伝えなはれ。
相手を貶めるんと違う。これが、全体のとってのいいことだと思います、ときちんとした言葉で伝えたらええやん。
ちゃんとした言葉で話せば分かり合えることもあるやん。
なんでそれが、陰口になったり、いらん尾ひれがついて耳に入ることになるん?
それは大人のやることと違うと思うで。

先日、とある会議で長年ある仕事を務めあげた人から聞いた言葉がふっと頭に浮かびました。

「ボランティアというのは、やる側が豊かでないと続かないのです」

豊かというのは、経済力だったり、精神的なものだったりするんでしょうか。

自分が怒ったり、人が怒ったり、誰かが泣いたり悲しんだり、さもしくってたまりません。
どうしてみんなが笑顔になるようにと考えられへんのやろなあ。
人が楽しそうにしていると自分も楽しくなりませんか。
笑顔をかわしていたわりあう言葉をかけたりかけられたりしたら、気持ちが和みませんか。
そうも思えないほど、気持ちはすさんでおりますか。
そういう考えは甘っちょろいですか。
でも、そんな生活、楽しいですか?
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