Nobody Nowhere

世界で初めて「自閉症」である本人が自らの内面世界を書いた「自閉症だったわたしへ」(原題・Nobody Nowhere)は有名な本です。
作者であるドナ・ウィリアムズは現在43歳。
わたしはもちろん原文を読むことはできないので、日本語訳された本を読んだわけですが、その文章力に圧倒されます。
彼女のサイトに行くと、絵画、彫刻、音楽、とあらゆる創造的分野で、彼女の類まれな才能を見ることができます。

わたしが彼女の本を手にとったのは、高機能自閉症やアスペルガー症候群といった人自身が、何をどう感じ、どう考えているかを知りたかったということがあります。
春になったとき、美しい花がたくさん咲きますね。
ピンクのチューリップが群となって咲いていると誰もが「きれいね」と言いますよね。
でも、その「きれいね」と感じる度合いや感動の目線は人それぞれです。
ある人はピンクの色が一面に広がっているからきれいだと感じるのだろうし、ある人はピンクの花だからきれいだと思うのかもしれない。(心の中では黄色い花でなくてよかったと感じているのかもしれない)
またある人はピンクの色に葉の緑があるからきれいだと思うのかもしれない。
それはその人の心の中に自分が入ってみなければ分からないことですが、総じて大体の人が「きれいね」と思うものです。
そういう「大体の人」を高機能自閉症、アスペルガー症候群の人たちは「定型の人」と呼びます。
「定型の人」。「定まった型に入っている人」。
なんとも切ない呼び名です。
型に入り込んでいるために、わたしはさらに彼らの心の中を知ることができない。
長男のリョウは現在高校一年生ですが、毎日途方もないストレスを抱えて学校から帰って来ます。
彼にとって悩みのほとんどは対人関係で、友人同士の会話ひとつひとつがついていけないのです。それは高機能広汎性発達障害の特徴でもあるんですけど、毎日帰宅後に1時間2時間と話を聞いてやりながら、時に叱責したり、時に励ましたりするわたしもだんだん対応が難しくなってきました。
と、いうのも、友人関係の会話なんてニュアンスの問題もありますから、実際その場で聞いて見ていなければ判断のしようがないことも多いんですよね。
「おまえバカだな」もニュアンスひとつで親密と敵対の両極になります。
リョウは言われたこと、「まんま」なので「おまえバカだなー」と相手がにっこり笑って見せても「バカと言われた」としかとらえられません。
わたしがそこを判断するのは前後の様子や会話だったりするんですけど、それを知る手がかりというのが当の息子しかいないんだもの。

最近の高校生はほぼ99%が携帯電話を持つことが多いのですが、リョウはかなくなに携帯電話を持つことを拒否しています。
高校に入ってもう半年以上もたつわけですから、「これ、オレの携帯番号。」と言ってメモで渡してくれる子もいるんですって。
「かけてよね、電話。」
さあ、これが大変なんですよ。電話かけるくらいどうってことないと思うでしょ?
リョウだって電話をかけた経験ってのは数限りなくあるんですよ。
「これ、オレの携帯番号」「かけてよね、電話」
これですよ、これ。この成り行きが経験ないんだから。
一時間くらい受話器を握り締めて苦しむわけです。
「じゃあ、お母さんがダイヤルしてやろう」
と、メモを片手にピポパとすると、最後のひとつで
「わー!やめてー!だめー!」
と、パニックになる。それが面白くてしばらく遊んでましたけど(オイ)、何とか自分でかけられるようになりました。
ところがかけると相手が出ない。
「相手の携帯に着信履歴つくし、かけたことは分かるから。別にいいんじゃない?」
そう言って翌日学校に送り出したのですが、また電話かけろと言われて帰ってくるんですよね。
じゃあ、かけたら?とかけさせたらやっぱり出ない。
明日、どうしてかけたのに出ないの?と聞いてごらん、と促したのですが、相手の返答が「7時にかけろって言ったのに、7時5分だったから出なかった」とかそういう返事を何度か持ち帰ってきたんですよね。
そういう返答すると、リョウは秒単位まで読んで電話をかけようとしますよ。
わたしもちょっとカチンときましてね。相手はリョウのそういう部分をからかっているのだと思いましたね。
「かけてと言われてかけたのに出ないんだったらもうかけない。用事があるならそっちからかけて、と言いなさい。」
そうリョウに言ったんですよね。でも、言えなかったでしょうね。
「じゃあ、おまえとはもう絶交。」
そんなふうに言われるのが一番怖いからです。
弄ばれようが、からかわれようが、仲間でいたいと思う気持ちのほうが強いんですよ。
「リョウ、いいことを教えてあげよう。『おまえの携帯番号、お母さんが家の電話のメモリに入れてくれたから』って言えば、たぶん彼は何も言わなくなると思う。」
なぜ?というのはリョウには分からなかったかもしれない。

ドナ・ウィリアムズという人は、「ありのままの自分」であることが一番いいことだと自ら知り、そうした生活を得た自閉症の人の中でも稀な存在かもしれません。
多くの自閉症、アスペルガーの人たちは、「ありのままの自分」であることに痛みを感じて生きています。
親と子という関係は、決して諦めない、見捨てないという関係であると同時に大きな限界も持ち合わせます。
親はいつまでも子のそばにはいられないということです。必ず子より先に天国に召されていくのだから。
そのとき、この子はひとりで歩いていけるだろうか、とわたしは時々不安になります。
それでも親ばかなわたしは「この子はきっと大成する子だ」などと考えています。

日本でのセミナーでドナ・ウィリアムズはメッセージを残しています。

『こうした人たちこそ、実は、社会の隠れた宝とでもいうべき存在なのではないでしょうか。特に、自閉症というものが「治った」ように見えるほど「克服する」ことができるのかどうかと、考えている人々にとっては。ですから、もし世間なり社会なりがこうした人たちに扉を閉ざし、自閉症には望みがなく、収拾不可能だという態度を取り続けるなら、こうした新しい可能性に対する答えにも、扉を閉ざしてしまうことになります。

「能力の高い」自閉症者は、その存在自体が、了見の狭い、古い理論に対する挑戦です。』
(自閉症だったわたしへ2/ドナ・ウィリアムズ/河野万里子 訳/新潮文庫)

今日、リョウは漢字検定の準二級を受けます。
読みは大得意でも書くことは少しおぼつかないリョウのことなので、合格かどうかは五分五分だと思いますが、良い結果が出て、ほんの少しでも彼自身の自信のひとつになってくれればと思います。
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