ジイちゃん、さよなら

▶ in Diary posted Sun 18 Aug 2013 / 19:09

ああ、これはまずいぞ、と病院に駆け込んで2日目、ようやく40%復活。
義父の具合がいよいよよろしくない、と連絡を受けて島に渡ったのが8月6日、その時は日帰りでしたが、急なスケジュール変更でバタバタしてしまい、相当体に負荷がかかったようで、帰りの船の中で突発性難聴発症。
その時は兎に角も日帰りで大丈夫だったので、家にあったビタミン剤を飲んで半日寝込んで何とか復活。
必要な打合せも全て済ませ、8月12日から帰省。

お盆というのは今生の者もご先祖様もどわーっと集まる時期なので、ジィちゃんあかんかもしれんなあ、みたいな思いはしていたのですが、翌日、朝の5時に病院から連絡。
「すぐ来て」と。

息子を叩き起こして歯磨きと数回顔を水で流すだけで車を走らせること20分。
とりあえずその時はまだ大丈夫だったかな。
呼び出した新米看護婦さんは、「ご家族呼ぶにはまだ早いです」と先輩看護婦さんに怒られていたそうな。
でも、いつ何時、みたいな感じだったので誰も帰ることができません。
午後くらいに流石に疲れ果てて交代で談話室のソファを占領して仮眠。

夕方近くなってから、ジイちゃんの呼吸はよく止まってしまうようになった。
皆で声をかけてまた呼び戻す。午後6時に最後の孫が帰って来るから。
「お義父さん、○○ちゃん、もうすぐ帰ってくるから!」
と、声をかけると、今までうっすらとしか目を開いていなかったジイちゃんの目がかっと開いたので、よっぽど会いたいんだろうなーと思いましたです。

が、私がその○○ちゃんとよく似た眼鏡をかけていたので
「あ、ごめん、私、○○ちゃんじゃないから」
あはははは・・・
まあ、まだその時はみんなでそんな冗談を言い合う余裕もあったかと。
義姉(ジイちゃんの実の娘)なんて、
「これ、パーンてしたら、ジイちゃんの呼吸戻るんちゃうか」
なんて、酸素マスクの紐ひっぱったりしていたので。

午後6時、ようやく孫到着。
じいちゃんは○○ちゃんの声を聞いて、最後の呼吸を終えました。

亡くなった、ということは一連の儀式が待っているということです。
私は喪主の妻で、その後3日間、ほとんど寝る時間のない状態だったわけですが、島の慣習やらなんやらがさっぱりわからない私に代わって義姉や義兄、親族の方が一生懸命動いてくださったから、「寝ないだけ」で済んでいたともいえます。
(逆に言うと、全く当てにされていなかった、ということでもあるけれど)
これがもし、全部を自分で中心になって動くことになっていたら、と思うと、今頃ブログなんて書けてなかったでしょう。

島の実家は仏教ではなくて神道なので、質素で簡素です。
お葬式にかかる費用は恐らく仏教に比べると半額か3分の1くらいで済むかも。
でも、お通夜やお葬式という流れはあるので、自分の母の時は密葬だった私には何十人どころか100人単位のお葬式はクラクラな状態です。
それでも、ジイちゃんは家族全員に見送られ、遺骨も全部大きな骨壺に入れてもらって、とても幸せだったんじゃないかと思います。
さすがに火葬場では記念撮影していませんが、まだ家にジイちゃんがお布団の上にいるときも孫たち全員がジイちゃんの遺影を持って「笑顔」で記念撮影してましたが、不謹慎というより何となくジイちゃんが嬉しそうにしているような気がしましたよ。

ジイちゃんのお骨の大半を拾ったのは夫と次男でした。
私の母が亡くなった時、次男は小学生で、生まれて初めて人が骨になるのを見たせいか、とてもショックを受けて暫く精神的なケアが必要でしたが、高校生になった彼はひょいひょいとジイちゃんのお骨を拾い、「入りきらないなあ〜」と呟いて火葬場の人にお骨の詰め方を教えてもらってぐいぐい処理していたかと。

こういう場で実はなーんの役にも立たないのにとりあえず「喪主の妻」だからということで、お茶碗のご飯を持ったり、お棺の傍にいないといけないのが私だったわけで、私なんかより、ずっとジイちゃんの看病をしてきた義姉や妻であるお義母さんが傍にいてあげたほうがジイちゃんもきっと嬉しいだろうに、と思うけれど、それはどうしようもないことなんだそうな。

そうそう、お茶碗。
最後に山盛りのご飯にお箸を立てて作る「一膳飯」。
このご飯を入れるジイちゃんのお茶碗がどうしても見つからなかった。
ジイちゃんは病気でご飯を食べられなくなって長いので、たぶんお義母さんが片づけたんだと思うけれど、お義母さんは少し認知症なのでどこに片づけたか分からない。
これかな、あれかな、とみんなで大騒ぎして、
「大きさからしてこれじゃない?」
と決められた茶碗を見た時、私は心の中で『う、うーーーん・・・』と思ったけれど、ここでまた振リ出しに戻って捜索するのは大変なので黙っておくことに。

そう、たぶん、ジイちゃんの一膳飯を入れたお茶碗は島に帰った時に私が使っていたものだったかと。

ジイちゃん、ごめんね、私のお茶碗、使ってください。

私の耳がすーっと聴力を失ってきたのはお通夜の最中で、実はそれまでも気配があったのでがんがんドリンク剤を飲んでいたのですが、如何せんこの暑さと睡眠不足。
葬儀が終わった時には左耳は完全に詰まった状態になっていました。
本土に戻った日が土曜日の午後だったので、着いたその足で耳鼻科に直行。
検査の結果、幸いにも自分で思っていたほど状態は悪くないらしく、もうこれは過労と睡眠不足しかありえないだろう、と。
「ビタミン剤と血流改善薬出しておくから、何とか休んで乗り切ってちょうだい」
と、薬を処方され、少しずつ聴力を取り戻しつつあります。

都会と違って、島は人との繋がりが強固なので、まだこれからもいろいろと祭事があります。
(神道は「お祭り」なんだそうな。亡くなったら神様になるからかな)
大丈夫かな、とちょっと不安になるけど、まあ、仕方ないかな。これも私の勤めです。

手間暇かかるジイちゃんの葬儀は私には想像を絶する感じがしたけれど、村の人が何十人も、葬儀でも何十人も、いや100人越えてたかな。
たくさんの人に見送ってもらって、別れを惜しんでもらって、できる限りのことをして見送ってあげた、というのは故人に対してだけではなく、残った者が今生を歩き始めるひとつのけじめなのではないかな、と思ったりもしたのでした。

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達者で暮らせ

▶ in Diary posted Fri 26 Jul 2013 / 19:56

かんかんの夏になってしまいました。
日記を更新せねばと思うけれど、全然余裕がなかったなあ…
登録しているSNSも放りっぱなしです。

6月に「プティ・パトラン洋菓子店/キララ多伎店」がオープンしました。

プティ・パトラン洋菓子店

こちらの看板やらサイトやら内部で使用するものやら、どたばたと…じゃない粛々と作業していたのが5月、6月でございます。

別件もちょうど季節替わりな時期だったので、重なって大変だったかも。
でも、まあ体調を崩すこともなく元気で。


長男はその間に引っ越し屋さんのアルバイトを見つけ、少ないなりにも軍資金を溜めて再び大阪に行きました。
家がないので、とりあえず友達の家に居候して、またそこで引っ越しのための費用を溜めるようです。

引っ越し屋さんのアルバイトは実入りはいいですがかなりハードで、実家からの通いで本人はアルバイトに行って帰って来る、という状態だけで良かったからできたような感じで、これがひとりで暮らしていると、長男にはまず不可能だったかと思います。

だって、朝は6時に出て行って、帰って来るのは遅い時で午後9時や10時。
翌日もシフトが入っていれば、帰ってすぐに汗まみれの制服の洗濯、夕食、お風呂、下手すると肉体労働で睡眠数時間の世界。
それが帰ってくればご飯はできているし、お風呂は沸いているし、制服は出せば母ちゃんが洗濯して干してくれるわけだし。
敷きっぱなしの布団だって母ちゃんが干しておいてくれるわけだ。

↑この布団は、途中でほったらかしておいたら、本当に敷きっぱなしの万年床になり、布団が腐りかけました。
布団って、こういうふうにだめになるのかと初めて知りました。
あともう少し気づくのが遅かったら、床に敷いていた絨毯までだめになっていたかと。
丸洗いできる布団だったので、悲鳴をあげながら私は布団を分解して風呂桶で消毒洗浄いたしました。

独身男子のみなさん

布団は絶対敷きっぱなしにするな! 泣くのは自分だぞ!

…いや、普通ならしないと思いますが。
息子もこれで一段階賢くなったであろう。

本来なら母ちゃんもバイト料の1割程度はもらってもいいんじゃないかと思いますが、まあ、そういう申し出はせず、息子には「有難う行ってくるよ」の言葉ももらえず、
「こんな家、とっとと出て行くぜ!」
な、雰囲気満々で息子は出立していきました。
とりあえず、母ちゃんは小うるさかったようです。

まあ、いいさ。達者で暮らせ。(笑

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センチメンタルどこへやら

▶ in Diary posted Fri 24 May 2013 / 22:19

先日、面接を受けるからと大阪に行った息子ですが、一週間たって返事が得られていないようなので、恐らく全ボツだったのでしょう。

それはそうと、父親から
「んなもん、何の準備もなくていきなり大阪行きやがって、あっちで住みたいんだったらこっちで家の敷金や礼金くらいテメエで稼いでから行きやがれ」
と総ダメ出しくらってました。
なんだよ、父ちゃんを説得して行ったわけじゃないのかよ。
これで息子の一人立ちなのねと、うるうるしていた私のセンチメンタルを返せ、て感じです。

と、いうので息子はまた家にいることになりましたが、
こいつの生活状態が悪いのなんの。
早い話、午後に起きて明け方寝る、という最悪の状態ですね。

数回小言を言いましたが、自分で責任をとれ、と私は放置状態です。
こっちも常に小言言い続けるほどヒマじゃないからです。

が、最近ちょっといい加減ドカンと怒ったろかな、という気がしてます。
と、いうのも、明け方にトイレのドアがバタンと閉まったり、コップを洗う音がしたりして、その時には今時分だとお日様が昇っている時間で外は明るいです。
明るいとそれで私の目が覚めてしまうのです。
「え、もう朝?」と時計を見ると、午前5時前。外がもううっすら明るい4時半くらいだったりします。
私は普段6時に起床しますが、就寝時間は平均して午前0時半〜1時です。
つまり、5時前くらいに起こされてしまうと、4時間が5時間くらいしか寝てないことになってしまう。
「まだ早いじゃん!」と思って再び寝ようと思っても、一時間したら起きなきゃ、と思うともう一回ぐっすり寝るどころじゃないのですね。

これが辛い。
なおかつ、自然な目覚めじゃないからなおのこと辛い。
だいたいが朝型の体質なので、午前中くらいはもちますが、午後からがもたない。
くっそー、眠いなー、というので少し横になろうとすると、今度はあっちが起きてきて、ごそごそ、ごそごそ、場合によったらトモダチ来たりして、眠れない。

はよ職探して大阪行け!

…と、センチメンタルどこへやらでむかむかしとります。

親って我がままです。たぶん子供以上に。

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子離れ

▶ in Diary posted Thu 16 May 2013 / 21:02

めずらしく続けて日記を書いています。
あんまりこういうことはないけども。

とりあえず着々と黙々と仕事をこなしています。

さて、専門学校を卒業して実家に戻ってきてしばらくプータロ―していた長男ですが、なんだかいきなり数件のバイトの面接を受けてくるからと、明日から再び大阪に戻ります。
ものすごい学費を払ってCGの専門学校に行ったのに、本人はそういう仕事に就く気がさらさらないらしい。
いったい何がやりたいのかわからないまま、本人の意思はあくまでも大阪に住んで働く、ということだけで、何をどう言っても聞く耳持たないので、私はもう知らんふりしています。

中年臭い大人の目から見れば青っちぃですよ。バイトだけで食っていけるかよとか、自力で生活したこともないのに、できるかよとか。
(とりあえず実家にいたこの2か月間だけは、料理を教えた)

でも、私も大学出て家を出るときに相当親に苦言を言われましたからねえ。
おんなじですよ。
親ってのはこういうもんです。
少なくとも自分でなんとかやっていこうという気持ちがあるだけでも十分じゃないですかね。

一見無謀に見える息子の行動も、よくよく考えてみれば私の若い頃の行動によく似ています。
学校を卒業したら自分で生きていくもんだ、と勝手に決めて家を飛び出したはいいものの、今思い起こせば怖い思いはいっぱいしたような。
親はその半分も知らないんじゃないでしょうか。
知ってたら速攻連れ戻されてますね。(笑

アスペルガーという障害を持つ息子にとっては、社会はなかなか生きづらい世界でしょう。
それでも内に篭らず、自分で何とかしようという心意気は評価すべきです。
21歳という年齢の彼には、親の助言は遙かに遠く、あとは自分で生きていく道を探す時期。
親も子離れをしなければと思う日々です。

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無の題

▶ in Diary posted Tue 14 May 2013 / 18:54

提出した6000字もリテイクなく通りました。
しばし休息・・・というわけにもいかず、次の仕事に着手してます。
そうこしているうちに、次の文章仕事が来ます。
さて、今度はどう纏めようか。

先日、仕事場を掃除していて、不要な書類をごそーっと捨てたのですが、数年開いていない箱を開いたらこんなものが。

note.jpg

高校生のときに書いていた小説のノートですね。
授業中に書いていたような…? という記憶が。(汗)
まあ、ご丁寧に手書きですか、などと笑ってはいけません。
パーソナルワープロ機として発売されたNECの文豪ミニなどは、この時代より6年後。
私が会社員になったときですらまだ富士通OASIS全盛期でしたから。
当然、この時代に一家でひとり一台パソコン、なんてのは私の中では遠い遠い未来のことでした。

それはさておき、
こういうのが数冊ごそごそっと出てきて、ああ懐かしいと思う反面、そういえばこれの倍ほどの量で漫画を描きなぐったノートもあったよなぁ、と。
それは実家に残してきたので、たぶん震災後(阪神淡路)母がどかっと捨てたと思います。
文章のほうはよほど思い入れがあったらしく、私は島根に持ってきたようで。

私が漫画(のようなもの)を描き始めたのは小学校の2年生頃です。
小説も小学生の頃から書き始めたと思う。

今も昔も私は外に出るよりも、家の中にいるほうが安心できるタイプで、それは重度の喘息持ちだった、というのが影響しているんでしょう。
普通の子のように体を動かすことができなかったし、学校は半分くらい休んでしまうような感じだったので、こんなことでしか発散をする術がなかったんだと思います。
当時の私を両親は「ガラス細工のようだった」とよく言っていましたが、今の私は「鉄板」です。
20歳まで生きることは難しいだろうと医者から言われていましたが、もうその2倍以上生きてます。
人生は変わるもんです。
病弱なお子さんをお持ちの皆様、安心しましょう。

さて、何度も脱線しますが、
今の私はイラストレーターで、グラフィックデザイナーでありながら、仕事は多岐にわたっています。
企画書も作るし、ライターでもあります。
立派なものは無理ですが、Webのパーツに使用する程度なら写真も撮ります。
写真は中学校1年生くらいから、父の一眼レフを借りて撮り始めたかと思います。
企画書を作る術を覚えたのは会社員時代です。
山っちゅうほど新商品の企画書を作りました。

フリーランスで仕事を始めてから、気づいたら自分の本業は何なのかわからなくなるくらい、いろんな仕事を担っているようになっていました。
少し前まではそれが辛かった。
本当に自分がやりたい仕事は何なのか。
自分はいったい何を目指しているのか。
それが分からなくなったから。
いろんなことを担う私を便利に思ってくれる人もいれば、侮蔑の目で見る人もいます。
世の中には「身の程を知れ」とかいう言葉もあるから、なんでもかんでもやっているのが必ずしもいいとは限りません。
プロがある世界は、それなりの水準があるわけで、平たく浅くやってきた私がどうしたって太刀打ちできない領域も必ずあります。
そこはきちんと押さえないといけないこともあります。
そして何が自分の得意分野であるのか、もきちんと押さえないといけないこともあります。

わかっているだけに、もうそろそろ自分の「本業」というものをじっくり考えないといけないんじゃないか、いや、もう考えたって手遅れの時期に来てるんじゃないか、という焦りが常にありました。

でも、ふと。

私は仕事をしていて楽しくないのか? と考えたのです。
文章を書いても楽しい。
写真を撮るのも楽しい。
デザインをするのも嫌いじゃない。(実はちょこっと苦手だけど)
イラスト描くのはもっと楽しい。

楽しいの裏側には必ず「辛いなぁ」ということがあります。
それが「創る」ということだし「仕事」というものです。

鼻っから仕事としての水準に達していなければ、どんなに私が楽しいと思っていても、仕事でやりたいと思っていても、発注してくれる人はいません。
成果がなければ次はありません。
発注してもらえる、次がある、ということは、必要に思ってもらえている、ということです。
じゃあ、それでいいじゃないか、と。

お話を作ることが大好きで文章を書き、漫画を描き、ファインダーから見える世界に魅入られて写真を撮り、そうして培ってきた私の今までの人生を何も自分で否定することはないじゃないか。
誰が何と言おうと思おうと、必要とされるんならそれでいいじゃないか。

そのうち、自分ではどうしようもない壁にぶち当たることもいずれあるでしょう。
その壁をよじ登る気力があればそうするだろうし、もうその体力がなければ少しずつ私の場は減っていくでしょう。
それもよきかなと思います。足るを知るって大事。
やってきたことは残るから。少なくとも私の心の中に。

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