マーサの幸せレシピ

▶ in Diary posted Sat 31 Aug 2013 / 22:51

家人は入院の準備をしています。
「バスタオルない? バスタオル」
「どうせ術後数日はお風呂なんて入れないと思うよ?」
「でも、下半身拭きたいじゃん。これくらいの大きさならいいか」
「(ちらっと家人を見るが無言)」
「箸箱ってあったっけ?」
「ないよ。100均で割り箸持っていけば?」
「スプーンあるかな、使い捨てのでいいんだけど」
「ないです」
「定期的に洗濯物取りに来てくれるよね?」
「(えー、と思うが口には出さない。えー、と思った私も私だと思うけど)」

入院準備というより「お泊り準備」。
何、嬉しそうにやってんだ。
なんかねぇ、ほんとにねぇ、こっちもいろいろスケジュール考えなきゃならない状態になってること

わかってんのか??


話題をばっさり変えます。

少し前からケーブルテレビのデジタル放送が受信できる機器を入れたので、なんだか我が家はいろんなチャンネルが見れるようになりました。(前はアナログだった)
アニメばっかりとか、天気予報ばっかりとか。
その中で映画ばっかり見られるチャンネルがあって、今日はそれにハマってしまいました。
最初は台風情報を見るはずだったんだけど。

「幸せのレシピ」やってたので、あ、これ見よう、と思って。
私は最初、2001年のドイツ映画のほうの「マーサの幸せレシピ」を.見ていて、これがすごく良かった。
で、ハリウッド版があることも知っていたので、どこかで観ようと思っていたこともあって。

どっちかいいかと言われると、どっちもいいんですが、私はドイツ版の「マーサの幸せレシピ」のほうが好きかなあ。
イタリア料理を作るシェフはドイツ版よりハリウッド版のアーロン・エッカートのほうがだんぜんいい男ですが、設定自体がハリウッド版は彼はアメリカ人ですし、そもそも舞台もアメリカです。
ドイツ映画のほうはもちろんドイツが舞台です。イタリア人シェフはギトギトのイタリア人です。
これが、ドイツ生まれで料理にしか興味のない堅物のマーサの性格とよく対比されてよかったのです。
マーサが引き取ることになった姉の娘への接し方も、ドイツ版のほうが良かったかな。
一番の違いはマーサの家で、自宅のキッチンがドイツ版はシェフらしくプロ用の鍋やフライパンを壁いっぱいにぶらさげてたのがすごく良かったのですが、ハリウッド版はごく普通のキッチンで、雇い主からカウンセリングを言い渡されるほど料理に執心していた彼女の生活が薄れてしまって本当に残念。
あとは「子供ってそんなに物わかりのいい生き物じゃないですよ」というところでしょうか。
そのあたりのリアル感はドイツ版のほうかな。

どちらも好みだと思います。
ハリウッド版のキャサリン・ゼダ・ジョーンズは美人ですしね。
私は性格がひねくれているので、万人ウケする映画づくりよりは、ってところかもしれません。
いずれにしても、どちらもハッピーエンドで観たあとにほっとできるので◎

このあと、「マイノリティー・リポート」と「A.I」まで見てしまったのはちょっと失敗。
一日が潰れた。
で、最後が「A.I」だったってので、気分が滅入りました。(笑
なんでこんな映画を作ったんだ、スピルバーグさん!

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久しぶりに怒る

▶ in Diary posted Thu 29 Aug 2013 / 23:57

なるほど、かのお人は上から目線でないと納得し得ない方だったのだな
・・・・・・と、いうのは全く関係のない別の件での呟きです。

さて、毎日のようにビタミン剤を飲み、突発性難聴もようやく快方に。
ほっとしたのも束の間、来月頭に今度は家人が入院して手術になります。

病気じゃありません。脂肪腫の切除です。
肩から首の付け根にかけて、握り拳2つ分くらいの巨大な脂肪腫です。

普通なら日帰り自宅処置でできる脂肪腫の切除を、どうして入院してまで手術になったかというと、何年も何年も何年も
「大きくならないうちにさっさと取ってしまいなよ!」
という私の警告を
「だって本人が気にならないのに、なんでそんな必要がある」
という言い分のもとに無視してきたからでした。

いよいよ病院に行く気になった時には、服を着ていても分かるほどの大きさになっており、正直、私が放置させたのだという非難の目も親類から向けられていたのですが、はっきり言って私のせいじゃありません。あくまでも本人のせいです。
脂肪腫切らなきゃ離婚するから、って言っても本人は切らなかったでしょうね。

担当の先生は薬師丸ひろ子さんのような目がクリッとした可愛い先生で、本人はそれがとてもツボだったらしく、何度も何度も「似てる、似てる」を繰り返してましたが、聞いてるほうはアホ臭くてしようがないです。
その先生は家人の脂肪腫を一目見るなり「我慢強いんですね」と言ったそうですが、はっきり「ばかですね」と言ったらいいのに、と私は密かに思ったりして。(笑

脂肪腫がかなり大きいので局所麻酔はできず、全身麻酔に。
なおかつ抜糸までの処理は自宅では不可能ということで一週間入院に。
こんなおおごとになってしまったので、私は同意書にサイン書いたりハンコ押したり、
昨日は手術の説明のために家に人に来てもらってくださいと言われたそうなので一緒に病院に行くことに。

薬師丸先生は本当に薬師丸ひろ子に似ていたので、喉元まで「先生、ちゃんりんしゃんて言ってください」と言いそうになりましたが、それは我慢。
家人は少し前に別の小さな粉瘤を取っていたので、それの抜糸もあったのですが、抜糸後にぺたぺたとテープを貼って、「これ、家でやってもらいたいので見ておいてください」というので私は呼ばれ。
「先生、これ、何のテープですか」
「テープです」

先生・・・・私の質問聞いてる?

薬師丸先生はなんかこういうちょっとおとぼけなひろ子ちゃんで、
「あ、お母さんせっかく来てくれたから、ここの取ったやつの写真見せてあげますね」

先生・・・・粉瘤の写真なんか見たくないです。
と、いうか、今日は手術の説明があるんじゃなかったんですか?
と、いうか、アタシ、こんなでかい親父のお母さんじゃないですけど

とかいう私の心の叫びは無視されて帰ってきました。
いったい、なんだったんだ。

その後は入院のためのものを準備しに行ったり。
家人はシャワーでも体を流せる、と思っているようですが、私はたぶんシャワーできないと思う。
入院中、半分くらいは止められるのではというのが予想です。
前の小さい粉瘤切除でもだめだったので。
でも、暑い時期なので、濡れないように私は背中を流したりしましたよ。
途方もなく負担かけてくれると思いませんか?
毎朝消毒もしてガーゼの交換もしましたよ。
年内はこれから手術する分も含めて、テープの貼り替えがずーっと続くんですよ。
それ、誰がするんですかね。

こんなことになっているのに、いまだに家人からは
「すまないことになっちゃってごめんね」
の一言もありません。

あり得ねえ!!

入院中は次男に漫画本を運ぶように指令を出し、
同僚とも漫画本の差し入れを約束し

おのれはいったい何をしに行くつもりじゃ、とむかついてたまらないのです。
せめて入院中に病院食でダイエットして帰って来るがよいぞ。
売店で買い食いができないように財布も没収じゃ。

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バアちゃんの話

▶ in Diary posted Sun 25 Aug 2013 / 19:56

お盆明けの最初に仕事をようやく納品して一息。
明日からは別の新しい仕事の打ち合わせが入ります。

突発性難聴は一週間薬を飲みきりましたが、間に十日祭(仏教で言うところの初七日)で、またフェリーに揺られることになったので、症状が後戻りしてしまいました。
どうしようかなと思っているのですが、家にあるビタミン剤だけで何とか乗り切れそうなので、様子を見ることに。

夫は五十日祭(仏教で言う四十九日)に向けての準備やら、相続のことやらで大変そうです。
(私は何もしていない)
ただ、島に帰る時は夫ひとりではなかなか難しいことがあるので私も帰ります。
先達ての十日祭もそうでした。

バアちゃんは、結婚してから今まで一切お金を管理したことがありません。
ATMも使ったことがありません。
自分が定期的に病院でもらう薬がいくらかも知らないし、光熱費がいかほどかも知りません。
今まで全部ジイちゃんが管理していて、ジイちゃんの具合が良くない状態になってからは義姉夫婦が管理していてくれたのです。
お料理も嫌いだし、ゴミの処理もできません。
私は夫と結婚して、初めて「そうだったの?」と知ることが多かったです。
だって、散々私はお金の管理ができてないとか、料理の盛り付けすらなってない、とかよく言われていたので。
なんだか狐につままれた気分です。

そんなバアちゃんは、少し認知症です。
ジイちゃんが亡くなったので、銀行口座やらいろいろ動かさないといけないけれど、バアちゃんは案の定、通帳のことやら実印のことやらさっぱり分かりません。
でも、再手続するためにはバアちゃん本人が行かないといけないこともあるのです。
それが夫ひとりでは難しい。
なので私が同行します。
私はバアちゃんの手を引くだけの役目です。
痩せて小さいバアちゃんの手は子供の手より頼りなくて、何だかちょっと悲しいです。

窓口で夫が手続している間、バアちゃんとソファに座ります。
夫がやっていることがバアちゃんに分かっているかな、と思います。
そのバアちゃんがふいに口を開きます。
「あんた達が帰ったあと、私はずっと心に留めて嫌な思いをしていることを言わないといけないの」
どうしたの、と聞くと、バアちゃんは聞かれるのを待っていたかのように話し始めます。
「家には私でしょ、で○○(バアちゃんの娘)とあの人がいるでしょ? その中でね、私の洗濯物がなくなるの」
私は最初、何のことかわかりませんでしたが、それから何度もバアちゃんが同じことを繰り返すので、ああ、これが前に夫の言っていたことか、と思い当たりました。
少し前からそういうことを口走るのだと夫が言っていたからです。

家に戻ってからネットで調べて分かったのですが、認知症の典型的な症状として、盗難妄想があるのだそうです。
多くは、自身の財産やお金に絡むものを誰かが盗ったと言うそうですが、バアちゃんはそのあたりの接点が今まで全くなかったので、次に大切なものとして自分の身の回りの日用品を盗られた、と言うのです。
バアちゃんはまことしやかに言いますが、内容は突っ込みどころ満載です。
いや、そもそも、バアちゃんの下着盗んで喜ぶ人がどこにいる。
それでも、バアちゃんにとっては一大事で、それは疑いようのない事実で、盗ったと思い込んだ相手が憎くて憎くてしようがないのです。
私は結局4、5回同じことを繰り返し聞くことになったかもしれません。
「何が無くなったの? 無くなって困っているものがあるなら買おうか?」
と、言うと、「何が無くなったか分からない」と言います。
分からないけれど、盗られたことは確かだとバアちゃんは主張します。

私はなんだかんだ言っても嫁で、もともとはアカの他人です。
でも、夫や義姉にとっては実の母です。
真正面から怒ってはいけない、とたぶん2人共分かっているのでしょうが、そういうことを口走る母親を冷静に見れません。
その怒り方を見ていると、バアちゃんのことも可哀想になってきます。
でも、いずれは私もその槍玉になるのかもしれません。
あの嫁が何かを盗った、嫁が帰って来ると何かが無くなっている。
そう言われる日も遠くはないのでしょう。
私はそれで失うものは何もないので、言われたところで別にどうということはないのですが、若い頃はキンキンカンカン、きっついことばっかり言っていたバアちゃんが皆に疎まれてしまうのは老いの悲しさを見るようで。

同じ認知症で何もわからなくなるのなら、
バアちゃん、幸せの中でぼやーんとしてくれんかな、と思うのです。

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ジイちゃん、さよなら

▶ in Diary posted Sun 18 Aug 2013 / 19:09

ああ、これはまずいぞ、と病院に駆け込んで2日目、ようやく40%復活。
義父の具合がいよいよよろしくない、と連絡を受けて島に渡ったのが8月6日、その時は日帰りでしたが、急なスケジュール変更でバタバタしてしまい、相当体に負荷がかかったようで、帰りの船の中で突発性難聴発症。
その時は兎に角も日帰りで大丈夫だったので、家にあったビタミン剤を飲んで半日寝込んで何とか復活。
必要な打合せも全て済ませ、8月12日から帰省。

お盆というのは今生の者もご先祖様もどわーっと集まる時期なので、ジィちゃんあかんかもしれんなあ、みたいな思いはしていたのですが、翌日、朝の5時に病院から連絡。
「すぐ来て」と。

息子を叩き起こして歯磨きと数回顔を水で流すだけで車を走らせること20分。
とりあえずその時はまだ大丈夫だったかな。
呼び出した新米看護婦さんは、「ご家族呼ぶにはまだ早いです」と先輩看護婦さんに怒られていたそうな。
でも、いつ何時、みたいな感じだったので誰も帰ることができません。
午後くらいに流石に疲れ果てて交代で談話室のソファを占領して仮眠。

夕方近くなってから、ジイちゃんの呼吸はよく止まってしまうようになった。
皆で声をかけてまた呼び戻す。午後6時に最後の孫が帰って来るから。
「お義父さん、○○ちゃん、もうすぐ帰ってくるから!」
と、声をかけると、今までうっすらとしか目を開いていなかったジイちゃんの目がかっと開いたので、よっぽど会いたいんだろうなーと思いましたです。

が、私がその○○ちゃんとよく似た眼鏡をかけていたので
「あ、ごめん、私、○○ちゃんじゃないから」
あはははは・・・
まあ、まだその時はみんなでそんな冗談を言い合う余裕もあったかと。
義姉(ジイちゃんの実の娘)なんて、
「これ、パーンてしたら、ジイちゃんの呼吸戻るんちゃうか」
なんて、酸素マスクの紐ひっぱったりしていたので。

午後6時、ようやく孫到着。
じいちゃんは○○ちゃんの声を聞いて、最後の呼吸を終えました。

亡くなった、ということは一連の儀式が待っているということです。
私は喪主の妻で、その後3日間、ほとんど寝る時間のない状態だったわけですが、島の慣習やらなんやらがさっぱりわからない私に代わって義姉や義兄、親族の方が一生懸命動いてくださったから、「寝ないだけ」で済んでいたともいえます。
(逆に言うと、全く当てにされていなかった、ということでもあるけれど)
これがもし、全部を自分で中心になって動くことになっていたら、と思うと、今頃ブログなんて書けてなかったでしょう。

島の実家は仏教ではなくて神道なので、質素で簡素です。
お葬式にかかる費用は恐らく仏教に比べると半額か3分の1くらいで済むかも。
でも、お通夜やお葬式という流れはあるので、自分の母の時は密葬だった私には何十人どころか100人単位のお葬式はクラクラな状態です。
それでも、ジイちゃんは家族全員に見送られ、遺骨も全部大きな骨壺に入れてもらって、とても幸せだったんじゃないかと思います。
さすがに火葬場では記念撮影していませんが、まだ家にジイちゃんがお布団の上にいるときも孫たち全員がジイちゃんの遺影を持って「笑顔」で記念撮影してましたが、不謹慎というより何となくジイちゃんが嬉しそうにしているような気がしましたよ。

ジイちゃんのお骨の大半を拾ったのは夫と次男でした。
私の母が亡くなった時、次男は小学生で、生まれて初めて人が骨になるのを見たせいか、とてもショックを受けて暫く精神的なケアが必要でしたが、高校生になった彼はひょいひょいとジイちゃんのお骨を拾い、「入りきらないなあ〜」と呟いて火葬場の人にお骨の詰め方を教えてもらってぐいぐい処理していたかと。

こういう場で実はなーんの役にも立たないのにとりあえず「喪主の妻」だからということで、お茶碗のご飯を持ったり、お棺の傍にいないといけないのが私だったわけで、私なんかより、ずっとジイちゃんの看病をしてきた義姉や妻であるお義母さんが傍にいてあげたほうがジイちゃんもきっと嬉しいだろうに、と思うけれど、それはどうしようもないことなんだそうな。

そうそう、お茶碗。
最後に山盛りのご飯にお箸を立てて作る「一膳飯」。
このご飯を入れるジイちゃんのお茶碗がどうしても見つからなかった。
ジイちゃんは病気でご飯を食べられなくなって長いので、たぶんお義母さんが片づけたんだと思うけれど、お義母さんは少し認知症なのでどこに片づけたか分からない。
これかな、あれかな、とみんなで大騒ぎして、
「大きさからしてこれじゃない?」
と決められた茶碗を見た時、私は心の中で『う、うーーーん・・・』と思ったけれど、ここでまた振リ出しに戻って捜索するのは大変なので黙っておくことに。

そう、たぶん、ジイちゃんの一膳飯を入れたお茶碗は島に帰った時に私が使っていたものだったかと。

ジイちゃん、ごめんね、私のお茶碗、使ってください。

私の耳がすーっと聴力を失ってきたのはお通夜の最中で、実はそれまでも気配があったのでがんがんドリンク剤を飲んでいたのですが、如何せんこの暑さと睡眠不足。
葬儀が終わった時には左耳は完全に詰まった状態になっていました。
本土に戻った日が土曜日の午後だったので、着いたその足で耳鼻科に直行。
検査の結果、幸いにも自分で思っていたほど状態は悪くないらしく、もうこれは過労と睡眠不足しかありえないだろう、と。
「ビタミン剤と血流改善薬出しておくから、何とか休んで乗り切ってちょうだい」
と、薬を処方され、少しずつ聴力を取り戻しつつあります。

都会と違って、島は人との繋がりが強固なので、まだこれからもいろいろと祭事があります。
(神道は「お祭り」なんだそうな。亡くなったら神様になるからかな)
大丈夫かな、とちょっと不安になるけど、まあ、仕方ないかな。これも私の勤めです。

手間暇かかるジイちゃんの葬儀は私には想像を絶する感じがしたけれど、村の人が何十人も、葬儀でも何十人も、いや100人越えてたかな。
たくさんの人に見送ってもらって、別れを惜しんでもらって、できる限りのことをして見送ってあげた、というのは故人に対してだけではなく、残った者が今生を歩き始めるひとつのけじめなのではないかな、と思ったりもしたのでした。

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